役者、物語、配役

私の考え


とてもとてもお久しぶりですね、るうかです。

最近定期的にTikTokで配信をするようになったんです。
なので色々な個人的な話や思いを語る機会が増えて、あまり記事を書かなくなってしまいました。

今回はその配信の中で話した話題、Twitterでバズってる記事に載っていたとあるnoteのお話。

軽く砕いて引用していくので、お暇な人は置いておくので先に読んでみてほしい。


共感する部分たくさんあった。


筆者が記事冒頭に書いている「最初の私」と私の考えは同じで、私も「原作に忠実な作品」を好みます。

なので、特に今回の話題の発端となった映画「リトル・マーメイド」も、配役としては少し違ったのかなと私は思っています。

それはあの役者さんがダメだからというわけではなく、単純に原作と違うから違和感を持ちました

でもこれコメントなどにもあったのが「そもそもディズニーの物語の時点で原作の童話からかけ離れている」から原作に忠実でなきゃいけないというのは変だと。


でもこれも難しくて、忠実でないから絶対にダメだというわけではないのです。

もはや別の物語として模倣していたとすればとても良いのでは?
「ついにあのディズニー人気作品が実写化」として広まっていくのは違うのではないかという話なのです。

例えば、ある人が好きで待っていたのはディズニーのアリエルであって、童話のアリエルではないと言えば伝わるのか…。

そもそも…


私は配信でも言ったように、元々実写映画があまり好きではないのです。
アニメ化や、2.5次元舞台も含めてのお話です。

元々持ってる役者さんの顔や声・性格など、原作に合う人がキャスティングされます

そこであらかたどの人がやるのか演じる人や脚本の人によってそのキャラの解釈が違ってきます

役者であれば声が高いのか低いのかで雰囲気が変わりますし、脚本であれば、そのキャラがどんな言葉を発するのか、本当にすべてがその人次第になったりします。


尺問題や、例えばアニメから舞台に変わるのに違う人にならざるを得ない場合など、違ったイメージになることも多々。
それでも役者さん側はできるだけ原作に寄せようと努力していることに変わりはありません。


でも今回は少し絡んできます。
今回のアリエルのように見た目的な相違ものに限った話ではなく、全体的に、原作に○○人と出身国などの設定がしっかりある作品も多いですよね。

例えば原作がアメリカ人のキャラに、実写映画で日本人が起用される、それはあり得ないと思いませんか?

今回話したいのはそういう話なのです。

差別と似てるけれど

差別だどうのと騒がれてこの問題が発生し始めたこともあり、今までのこの意見が「差別」だと非難されることも多くあるようですが、そもそも差別と区別って違いますよね。

この問題は単純に「アリエルは肌が白い」という特徴を持っている。
だからキャスト候補に肌が白い方を探す

そういう単純な、人の区別方法だと思うのです。


アリエルに、肌が白いし他も申し分ないからと日本人の顔が選ばれたら、それはそれで快挙かもしれないけど、喜ばれることなのかな?って思うのです。 

役者としてそう思ってしまうのですよ。


せめて「この人なら確かにこの役ぴったりだわ…」と完璧に負けを認められる人であってほしい。
それには絶対に区別が必要だと思います。


まあもちろんみんながみんな納得できるような配役は解釈にもよって難しいですがね…。

理解はできたけど共感できなかった。

この記事の後半に私は特に共感できなかったことがあります。

「これから大人になっていく子供たちの当たり前を変えていくために、業界は急いでLGBTQ配慮のキャラクターを追加したり、していると気付いた」

そんなように本文にはありますが、なら、なぜ新しい物語でそれをやらずに、既存の物語でそれをしてしまうのでしょう


そもそも暴論を言ってしまえば、作品なんてほとんどがフィクション。
どれだけリアリティがあったとしても大体はフィクションである、ということを前提にせず、私たちのリアルな生活と同じだと思って、配慮が足りないと考える人が多いのが問題なのだと思う。


ワンピースに対して、世の中に海賊はこんなにいません、子供が見るにはグロすぎるので配慮してください、と言うことはないですよね。

でも少しでもリアリティがあったり、小説やその他の漫画になると途端にその境界線がなくなってしまうのはどうしてなのか、まずそこだと思うのですが、まあ今回は一旦置いておいて。


配慮していくのではなく、作品として、当たり前になればいい
だからこそ新作でしていけばいいのに、なぜわざわざすでに出来上がってるものや、前の時代の作品を変えてしまうのか。


同時に、前の時代のものが今受け入れられないから排除することも最近増えていますが、それもおかしいと思います。

その時々に流行りは変わるのが当たり前なのに、どうしてその当たり前は簡単に排除されたり変えられてしまうのか。


それだってたくさんの人が思い入れのある作品で、一人ひとりのキャラクターだったはずなのに、そういうフィクションの世界なのに。

テレビ番組やリアルな生活が移り変わっていくのはわかりますが、昔の名作を今風にしてしまうのは、良さを消してしまうのではないでしょうか。

昔と比べたら…

以前に比べて、多様性の増した社会にはなったとは思います。
でも、明らかに自衛をしない、配慮されて当たり前なものが増えた


話を聞かない人、自分が嫌だからクレームを入れて変えさせる、なんてことも良く目にします。
でもなぜこちらの話を聞かない人の話を聞いてあげなきゃいけないのか…。
だいたい言っている人は当事者ではなかったり一部だけ聞いて全部を知らなかったり。


他人に意見することが簡単になった今、自分が正しいと思う人が圧倒的に増えたのではないでしょうか。
自分が正しいと思うから、嫌なこと、正しくないと思ったらすぐクレームを入れる、誹謗中傷する…



そういうとお前が嫌だから配役に文句つけてるんだろと言われそうですね。

でも別に嫌なら見なければいい、Twitterも何もかも自分が嫌なら自衛するしかない。

私は基本実写作品は見てません。
それか原作を知らない状態で見ています。


何だってそうですよね、結局自分が嫌だ、おかしいと思えば見なきゃいい、それが出来ない人が増えた。
だからいろんなものに配慮という名の規制が入っている。


今の若い人ほど、周りに外国人の人が増えたりLGBTQ当事者の友達がいたり、そもそも偏見を持っている人が減っているようです。


次の子供のために「当たり前」を一番変えていかなければいけないのは、昔の当たり前を持っている人なんじゃないかと思います。


こんなところで今回のお話は終わっとこう。
みんなの当たり前は当たり前じゃないこと、何に対してもそう思っていることが大切だよねってことでした。

以上!!!!

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